Member profile 役職員プロフィール
ジャパンブリッジは、日本から世界へ発信するベンチャー企業です。
M&Aアドバイザリー事業、対日投資支援事業、人材紹介事業、SDGs事業を通じて、
企業の様々な課題を具体的に解決するパートナーを目指します。
M&Aアドバイザリー事業、対日投資支援事業、人材紹介事業、SDGs事業を通じて、
企業の様々な課題を具体的に解決するパートナーを目指します。
ジャパンブリッジは、日本から世界へ発信するベンチャー企業です。M&Aアドバイザリー事業、対日投資支援事業、外国人人材紹介事業、SDGs事業を通じて、企業の様々な課題を具体的に解決するパートナーを目指します。
■役職員プロフィールMember profile
■役職員プロフィール
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代表取締役
藤田 憲彦 Norihiko Fujita
- 新潟県生まれ
- 新潟県立高田高校・東京大学法学部卒業
- 宅地建物取引士
- 言語:日本語、英語、スペイン語
1993年高校卒業後1年間浪人の末東京大学に入学する。法学部に進学した3年生の時に、学部の学生自治会組織である「東大法学部緑会委員会」の国際担当部に加わり、東大に留学する学生との交流を推進する。その縁がきっかけとなり、韓国の学生と交流が生まれ、日韓学生会議が日本、韓国の複数の大学と合同で開催され中心的役割を果たす。
また、ヨーロッパの法学生団体(ELSA)との交流も生まれ、自らヨーロッパ各国を訪問し学生との交流を深め、アジアに法学生団体を作ろうと呼びかけ人となり、1996年にアジア法学生協会(ALSA Japan)(当時)を設立し初代代表になり、中国、韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、インドネシアなどの学生とも交流を深める。(後に内田晋太郎が後輩としてALSAに入る。)同時に4年次には緑会の委員長も務め、学生論文コンクールや宮沢喜一総理大臣(当時)を安田講堂に招いての講演会などを企画し実行する。
1997年東京大学法学部卒業。国家公務員Ⅰ種試験に合格するが、企業への就職を選択し、同年ソニー株式会社(現ソニーグループ株式会社)に入社する。入社後本社法務部に配属され、日本語及び英語の契約書の作成に没頭する。その後同社PNC法務知財部に配属され、パソコンのVAIOや携帯電話事業に関する法務知財に関わる。2000年より、ソニーとエリクソンの携帯電話のJV事業であるソニー・エリクソンモバイルコミュニケーションズ株式会社(当時)の設立法務担当メンバーとして渡英し、契約交渉の最前線に立ち、合弁事業を成立させる。
2001年電子マネー「Edy」の事業運営会社のビットワレット株式会社(現楽天Edy株式会社)に立ち上げ段階から出向する。(半年後、同じく当時株式会社ソニーファイナンスインターナショナルから藤田絢子が同社に出向する。)法務や広報、EC加盟店の開拓などを担当する傍ら、おサイフケータイの開発に携わり、ビジネスモデル特許を6本筆頭発明人として取得し、NTTドコモ、au、ボーダフォン(現ソフトバンクモバイル)の3キャリアへの電子マネー「Edy」の搭載を実現する。
2006年出向したままソニー株式会社を退社し、ソニーのOBである平松庚三氏(元株式会社ライブドアホールディングス代表取締役社長)とともに、シニア向けITビジネスの小僧com株式会社を立ち上げ、代表取締役社長に就任する。(藤原純衛が同社サービスのコアユーザーとなる。)
2005年の郵政選挙でのボランティア経験をきっかけに政治家になりたいという志が芽生え、民主党(当時)の公募に合格し、衆議院候補予定者となり同社を退任する。2009年の総選挙にて東京都第4区(大田区中南部、大森、蒲田エリア)より小選挙区で初当選する。総務委員会、財務金融委員会、法務委員会、安全保障委員会理事、政調会長補佐などを歴任するが、2012年の総選挙で落選し2015年に政治家を引退する。
2013年政治浪人中にキャピタルハウス株式会社を設立し代表取締役に就任する。また、2016年に行政書士試験に合格し、藤田のりひこ行政書士事務所(現ジャパンブリッジ行政書士法人)を開設し、各種許認可や外国人の在留資格に携わる。2018年に外国人専門人材紹介を行うFujita&Partners株式会社(現ジャパンブリッジ株式会社)を設立する。
ジャパンブリッジ株式会社ではビジネスモデル構築や事業承継(M&A)のビジネススキーム検討などにも豊富な経験を持ち、株式会社や合同会社などの他に、医療法人、学校法人、事業協同組合などのM&Aなども担当している。
また、ヨーロッパの法学生団体(ELSA)との交流も生まれ、自らヨーロッパ各国を訪問し学生との交流を深め、アジアに法学生団体を作ろうと呼びかけ人となり、1996年にアジア法学生協会(ALSA Japan)(当時)を設立し初代代表になり、中国、韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、インドネシアなどの学生とも交流を深める。(後に内田晋太郎が後輩としてALSAに入る。)同時に4年次には緑会の委員長も務め、学生論文コンクールや宮沢喜一総理大臣(当時)を安田講堂に招いての講演会などを企画し実行する。
1997年東京大学法学部卒業。国家公務員Ⅰ種試験に合格するが、企業への就職を選択し、同年ソニー株式会社(現ソニーグループ株式会社)に入社する。入社後本社法務部に配属され、日本語及び英語の契約書の作成に没頭する。その後同社PNC法務知財部に配属され、パソコンのVAIOや携帯電話事業に関する法務知財に関わる。2000年より、ソニーとエリクソンの携帯電話のJV事業であるソニー・エリクソンモバイルコミュニケーションズ株式会社(当時)の設立法務担当メンバーとして渡英し、契約交渉の最前線に立ち、合弁事業を成立させる。
2001年電子マネー「Edy」の事業運営会社のビットワレット株式会社(現楽天Edy株式会社)に立ち上げ段階から出向する。(半年後、同じく当時株式会社ソニーファイナンスインターナショナルから藤田絢子が同社に出向する。)法務や広報、EC加盟店の開拓などを担当する傍ら、おサイフケータイの開発に携わり、ビジネスモデル特許を6本筆頭発明人として取得し、NTTドコモ、au、ボーダフォン(現ソフトバンクモバイル)の3キャリアへの電子マネー「Edy」の搭載を実現する。
2006年出向したままソニー株式会社を退社し、ソニーのOBである平松庚三氏(元株式会社ライブドアホールディングス代表取締役社長)とともに、シニア向けITビジネスの小僧com株式会社を立ち上げ、代表取締役社長に就任する。(藤原純衛が同社サービスのコアユーザーとなる。)
2005年の郵政選挙でのボランティア経験をきっかけに政治家になりたいという志が芽生え、民主党(当時)の公募に合格し、衆議院候補予定者となり同社を退任する。2009年の総選挙にて東京都第4区(大田区中南部、大森、蒲田エリア)より小選挙区で初当選する。総務委員会、財務金融委員会、法務委員会、安全保障委員会理事、政調会長補佐などを歴任するが、2012年の総選挙で落選し2015年に政治家を引退する。
2013年政治浪人中にキャピタルハウス株式会社を設立し代表取締役に就任する。また、2016年に行政書士試験に合格し、藤田のりひこ行政書士事務所(現ジャパンブリッジ行政書士法人)を開設し、各種許認可や外国人の在留資格に携わる。2018年に外国人専門人材紹介を行うFujita&Partners株式会社(現ジャパンブリッジ株式会社)を設立する。
ジャパンブリッジ株式会社ではビジネスモデル構築や事業承継(M&A)のビジネススキーム検討などにも豊富な経験を持ち、株式会社や合同会社などの他に、医療法人、学校法人、事業協同組合などのM&Aなども担当している。
取締役
内田 晋太郎 Shintaro Uchida
- 神奈川県横浜市生まれ
- 私立開成高校・東京大学法学部卒業
- 司法書士/行政書士/宅地建物取引士/M&Aシニアエキスパート
- 言語:日本語、英語
1978年、商社マンの父と薬剤師の母との間に生まれる。幼少期は恥ずかしがり屋で引っ込み思案であったが、周囲の愛情をいっぱいに受け、心身ともに健やかに成長。幼稚園時代に受けたIQテストで高得点を上げたことを契機に、知育系の塾通いをスタート。
進学した公立の小学校では、学校創立以来の天才と呼ばれ、周囲からは有名中学進学への期待を掛けられるも、自身はプロ野球選手になるという夢と折り合いをつけることに思い悩む。最終的に大好きだった少年野球をやめて勉学に専念し、開成中学への入試に成功する。進学塾SAPIXの第1期生。
開成中学・高校時代は、部活動で野球に打ち込む傍ら、トリリンガルの父親の影響から英語の勉強にいそしみ、その過程で外国映画の鑑賞に目覚める。最も好きだった「カサブランカ」は、ハンフリー・ボガートの台詞をすべて諳んじた。大学受験が近づくと再び勉強モードに切り替え、悶々としながらも東京大学文科Ⅰ類に合格。
大学進学後はそれまでの鬱屈から解放された反動から、映画・演劇鑑賞にのめり込む。年間500本の鑑賞を自らに課し、知識人気取りで芸術評論を闘わせる日々を送る。当時、独学だけで到達したTOEICスコアは945点。しかし法学部進学を期に、法学部生の国際交流団体であるアジア法学生協会(ALSA Japan)に加入。アジア諸国の学生との交流シンポジウムや鳩山由紀夫衆議院議員による安田講堂講演会等の企画を主導する中で、自分の未熟さを痛感。この頃、藤田憲彦と出会う。
大学卒業を控えて進路を考える過程で、好きだった芝居の世界で演じる側に立ちたいという想いに取り憑かれ、周囲の心配をよそに2002年に役者の道へ進むことを決意。マーロン・ブランドやジェームズ・ディーンが学んだ「メソッド技法」を追求しつつ、オーディション参加と落選を繰り返す毎日を送る。30歳を迎え、オーディション落選200回、出演実績も自主製作舞台とテレビCMのエキストラのみという事実に直面した結果、役者としての限界を悟り、ビジネス転向を決断。
2009年、司法書士試験に合格。東京都内の大手司法書士法人に就職し、各種登記実務を担当。2010年より同司法書士法人グループ内のコンサルティング会社へ転籍し、上場企業によるマーケットリサーチの代行やレポーティング業務、非営利法人向けの許認可対応コンサルティング業務等に従事。また、独立行政法人日本貿易振興機構(JETRO)からの受託業務として、日本進出を企図する海外企業に対する、英語による日本拠点設立相談に対応した。
2015年以降は、中小企業の経営者や経営幹部に対し、法務顧問の立場から、資本政策提案・実行、契約書・内規の起案・レビュー、経営者個人の相続対策の提案・実行等に多数従事。同時にM&A関連サービスとして、株式譲渡、事業譲渡、合併・会社分割の契約書類の文案策定や法務デューデリジェンス、仲介・ファイナンシャルアドバイザー業務、不動産関連業務として、開発用地や収益物件の売買仲介業務を担当した。
2021年に藤田憲彦との電撃的な再会を機に同社を退職し、ジャパンブリッジ株式会社取締役に就任。法務・許認可への造詣の深さと中小企業の経営実態への理解をベースに、M&Aアドバイザリー事業、人材紹介事業を担うとともに、司法書士業務、行政書士業務も展開する。
紆余曲折を経て辿り着いた現在の趣味は、グロス100 オーバーでも楽しくゴルフをラウンドすることと、ニコラス・ケイジの演技を観ること。仕事におけるモットーは、「お客様の未来をつくり、家族の未来もつくる」。
進学した公立の小学校では、学校創立以来の天才と呼ばれ、周囲からは有名中学進学への期待を掛けられるも、自身はプロ野球選手になるという夢と折り合いをつけることに思い悩む。最終的に大好きだった少年野球をやめて勉学に専念し、開成中学への入試に成功する。進学塾SAPIXの第1期生。
開成中学・高校時代は、部活動で野球に打ち込む傍ら、トリリンガルの父親の影響から英語の勉強にいそしみ、その過程で外国映画の鑑賞に目覚める。最も好きだった「カサブランカ」は、ハンフリー・ボガートの台詞をすべて諳んじた。大学受験が近づくと再び勉強モードに切り替え、悶々としながらも東京大学文科Ⅰ類に合格。
大学進学後はそれまでの鬱屈から解放された反動から、映画・演劇鑑賞にのめり込む。年間500本の鑑賞を自らに課し、知識人気取りで芸術評論を闘わせる日々を送る。当時、独学だけで到達したTOEICスコアは945点。しかし法学部進学を期に、法学部生の国際交流団体であるアジア法学生協会(ALSA Japan)に加入。アジア諸国の学生との交流シンポジウムや鳩山由紀夫衆議院議員による安田講堂講演会等の企画を主導する中で、自分の未熟さを痛感。この頃、藤田憲彦と出会う。
大学卒業を控えて進路を考える過程で、好きだった芝居の世界で演じる側に立ちたいという想いに取り憑かれ、周囲の心配をよそに2002年に役者の道へ進むことを決意。マーロン・ブランドやジェームズ・ディーンが学んだ「メソッド技法」を追求しつつ、オーディション参加と落選を繰り返す毎日を送る。30歳を迎え、オーディション落選200回、出演実績も自主製作舞台とテレビCMのエキストラのみという事実に直面した結果、役者としての限界を悟り、ビジネス転向を決断。
2009年、司法書士試験に合格。東京都内の大手司法書士法人に就職し、各種登記実務を担当。2010年より同司法書士法人グループ内のコンサルティング会社へ転籍し、上場企業によるマーケットリサーチの代行やレポーティング業務、非営利法人向けの許認可対応コンサルティング業務等に従事。また、独立行政法人日本貿易振興機構(JETRO)からの受託業務として、日本進出を企図する海外企業に対する、英語による日本拠点設立相談に対応した。
2015年以降は、中小企業の経営者や経営幹部に対し、法務顧問の立場から、資本政策提案・実行、契約書・内規の起案・レビュー、経営者個人の相続対策の提案・実行等に多数従事。同時にM&A関連サービスとして、株式譲渡、事業譲渡、合併・会社分割の契約書類の文案策定や法務デューデリジェンス、仲介・ファイナンシャルアドバイザー業務、不動産関連業務として、開発用地や収益物件の売買仲介業務を担当した。
2021年に藤田憲彦との電撃的な再会を機に同社を退職し、ジャパンブリッジ株式会社取締役に就任。法務・許認可への造詣の深さと中小企業の経営実態への理解をベースに、M&Aアドバイザリー事業、人材紹介事業を担うとともに、司法書士業務、行政書士業務も展開する。
紆余曲折を経て辿り着いた現在の趣味は、グロス100 オーバーでも楽しくゴルフをラウンドすることと、ニコラス・ケイジの演技を観ること。仕事におけるモットーは、「お客様の未来をつくり、家族の未来もつくる」。
コンサルタント
藤原 純衛 Junei Fujiwara
- 秋田県仙北市(角館・田沢湖地区)生まれ
- 専任宅地建物取引士
新卒時は銀行員。最初の上司はタレント・所ジョージ氏のお父さん。
銀行員の自己啓発プログラムにおいて宅地建物取引主任に合格。中小企業診断士の勉強も始めるが「どうせならお金をもらって勉強しよう」と漠然と経営コンサルタント会社を調べ、当時営業職を募集していた株式会社マネジメントサービスセンターの採用試験を受験。同社は社員研修の企画・講師派遣業だったため目指す方向とは異なったが、それはそれで面白そうと進路変更を決断。同社の主力サービスであるアセスメント研修は、企業の昇進昇格プログラムとして多く活用されていた。
給料がやっと20万円を越えた頃に40万円近いパソコン(PC98)を購入し「パソコン通信」を開始、「異業種交流」をテーマとしたフォーラムに参加し、人的なネットワークを広げる。会員にはスペシャリストが集まり、会社や業界を超えた交流が今も続き、後に藤田憲彦が運営していた「小僧com」事業にも参画する切っ掛けになる。
パソコン通信で出会った人の縁からリクルート系の転職支援会社・株式会社リクルート人材センター(現株式会社リクルートキャリア)にキャリアアドバイザーとして転職。「人を育てる仕事」から「育った人材の次のキャリアアップをサポートする仕事」に転換。IT系エンジニア系人材担当からメディカル系人材担当へ部署異動し、MR、創薬研究者、医師、看護師、薬剤師の転職をサポートする。
その後、「転職希望者から採用側までの一気通貫」に興味を持ち、中小の人材紹介会社を複数社経験。さらには、旧・山一證券のOBが金融庁の許可を得て再興した山一證券株式会社でM&A事業に携わり、いわば「会社の転職を支える仕事」に取り組む。薬局・ドラッグストアや飲食系、不動産系を始めとした幅広い業界に積極的にアプローチし、現在の対外ネットワークを強固なものにする。
2021年から参画したジャパンブリッジ株式会社では、M&Aアドバイザリー事業、人材紹介事業、およびグループ会社との連携による不動産売買仲介事業において、幅広い経験と人脈を生かして業務を展開している。
銀行員の自己啓発プログラムにおいて宅地建物取引主任に合格。中小企業診断士の勉強も始めるが「どうせならお金をもらって勉強しよう」と漠然と経営コンサルタント会社を調べ、当時営業職を募集していた株式会社マネジメントサービスセンターの採用試験を受験。同社は社員研修の企画・講師派遣業だったため目指す方向とは異なったが、それはそれで面白そうと進路変更を決断。同社の主力サービスであるアセスメント研修は、企業の昇進昇格プログラムとして多く活用されていた。
給料がやっと20万円を越えた頃に40万円近いパソコン(PC98)を購入し「パソコン通信」を開始、「異業種交流」をテーマとしたフォーラムに参加し、人的なネットワークを広げる。会員にはスペシャリストが集まり、会社や業界を超えた交流が今も続き、後に藤田憲彦が運営していた「小僧com」事業にも参画する切っ掛けになる。
パソコン通信で出会った人の縁からリクルート系の転職支援会社・株式会社リクルート人材センター(現株式会社リクルートキャリア)にキャリアアドバイザーとして転職。「人を育てる仕事」から「育った人材の次のキャリアアップをサポートする仕事」に転換。IT系エンジニア系人材担当からメディカル系人材担当へ部署異動し、MR、創薬研究者、医師、看護師、薬剤師の転職をサポートする。
その後、「転職希望者から採用側までの一気通貫」に興味を持ち、中小の人材紹介会社を複数社経験。さらには、旧・山一證券のOBが金融庁の許可を得て再興した山一證券株式会社でM&A事業に携わり、いわば「会社の転職を支える仕事」に取り組む。薬局・ドラッグストアや飲食系、不動産系を始めとした幅広い業界に積極的にアプローチし、現在の対外ネットワークを強固なものにする。
2021年から参画したジャパンブリッジ株式会社では、M&Aアドバイザリー事業、人材紹介事業、およびグループ会社との連携による不動産売買仲介事業において、幅広い経験と人脈を生かして業務を展開している。